大森稲荷神社について
【 祭 神 】 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
【 旧社格 】 無格社
【社殿様式】 流造
【社殿面積】 53坪
【境内面積】 565坪
【由緒】
創祀年は函館の累次の大火で不詳であるが、「弘化三年再建」(1846)の棟札があること、又寛文9年(1669)に「大森」の名が地図上に見えることから推して凡そ350年位前と推定される。
明治7年旧社地(現大森町8)に再営。
明治40年の大火に類焼後、同43年現在地に移転する。
それまでは大森浜に面して祀られていたが、この時より街方に向って祀られた。
昭和9年の大火にも類焼、同12年社殿、社務所、鳥居、手水舎、玉垣等を再営する。
現在の二の鳥居、狛犬はそれ以前からのものである。
昭和45年木原崇雲翁の寄進により、これまでの神明造り総桧社殿を矢不来天満宮に委譲し、不燃の朱塗流れ造り社殿を再営した。
翌46年社務所を再建、61年には境内地(105坪)を拡張、その境に朱塗石玉垣を建立する。
境内には木原崇雲顕彰碑と料理の上達、庖丁への感謝を表わす庖丁塚が建立されている。
附属団体として大森稲荷神社奉賛会、大森稲荷神社敬神婦人会がある。
【木原崇雲翁顕彰碑】
神は人の敬に依りて威を増し
人は神の徳に依りて運を添う
と、鎌倉幕府制定貞永式目第一條にある如く、正に木原翁こそ生涯をかけて敬神崇佛に徹し、その恩恵に浴して奉賛の淨行を重ね、家運隆昌今や所有する山林実に二府二十二縣に亘り、国土保全公共の福祉に寄與する所極めて大なり。
この偉業誠に神明照鑑の証とも言ふべきか。
翁は愛知縣知多郡河和村にその生を享け、五歳にして父母に離別、幾多の辛酸苦難に遭遇せるも、少時既に大志を抱き、身を挺して初一念を貫き、無より出でて産を興し業を拡め、今日の盛運を招来せり。
殊に、翁無二の協力者、賢夫人故ヨシ子刀自は大森町に出生、その氏神たるの縁故を以て多年に亘り大森稲荷大神に崇敬の誠を捧げられ、さきに御影石大鳥居一基を寄進、この度重ねて社殿改築、境内整備の大業を起す。
昭和四十五年十二月朱塗鮮やかに社殿竣功。
同年十二月十二日淨夜を卜して、感激の本殿遷座祭齋行せり。
神威赫々、御神徳天下に普し、
茲に木原崇雲翁の奇特なる篤志に対し、深甚なる謝意を表し、その偉業を永遠に伝へんと之を記す。
昭和四十六年九月十日
大森稲荷神社宮司
小野孝良 謹記
【庖丁塚】
庖丁塚趣意
調理師の使命は、生命の保持健康の増進を計り、食生活の向上発展に寄与し、味覚求真を尋ねて社会に慰安をもたらす齎することにあります。
日々の庖丁技術・技能の練磨研鑽は料理道を志す者の掟であります。
調理師の掟を守る庖丁は調理師の生命、生活、生産を支える生涯の師であり、魂であります。
生涯を分ち得た庖丁に感謝し、庖丁を祀り敬うのも調理師の希ひであります。
私共調理師の希望にあたたかい顧慮を以て、同志の精神的拠り処としての庖丁塚であれと前北全調函館支部長故中島庄五郎氏のご遺志に依り、茲に庖丁塚の建立と成りました。
敬慕を込めて納刀供養を捧げる祭所として、道南調理師の心の絆となることを希う次第であります。
昭和五十六年九月吉日
社団法人北海道全調理師会函館支部
◇平成23年12月 NCV『おじゃマップ』で紹介されました。